百合を定義するのか?みたいな話

先日、「伊藤計劃のハーモニーって百合か?で三時間くらい話した」みたいな話をされました。「ヤマシタトモコのHERって百合か?」「森永みるくGirl Friendsって百合か?」みたいな。

挙げた作品は多くの人が「百合じゃね?」と言うんじゃね、というのが、最近のTLを眺めたときの(個人的な)印象です。だってみんなすぐに「百合じゃん」言うじゃんね。

でもやっぱり百合かレズか、みたいなカテゴライズ論争がそこそこ諸所で見られて、決着がつかなくてムズムズするわけです。せめて自分なりの意見は言えるようにしておきたい。というわけで現状を書いてまとめるかというモチベが生えた。

まず認めておいた方がいいのは、百合とかレズとかGLとかの名で指される範囲は大部分が重なり合ってるはずだけど、一致しているのかいないのかぼくにはよくわかっていないということ(まぁ名が指すものがそもそもはっきりしないので分かるはずもないが……)。ただ、たぶん完全に重なり合ってはいなさそう。たとえば先ほど挙げた『HER』。 

HER (FEEL COMICS)

HER (FEEL COMICS)

 

 この短編集では女性同性愛がメインテーマの作品とはっきり言えるものはない*1。ぶっちゃけ異性愛バリバリの作品。でも収録作に「コンプレックスと嫉妬でグチャって女が女を傷つける」みたいな話がある。「ずるいずるいずるいずるい」「あたしのこと見下して楽しいんだね」「あたしは絶対この人を好きになってしまう」「…大っ嫌い」「本当は仲良くなりたかったです」アァ~~~これっていわゆる”クソでか感情”!?じゃーん!はい、百合!

となるのがぼくのTLの大多数なんですが、たぶんこの女性は性的志向ヘテロで、レズじゃない、と思う。でもぼくのTLでは百合認定されちゃう。百合認定があまりにもガバ基準に見えるせいで「俺たちが百合だと思ったものが百合なんだ!」みたいな論調も見るようになってきた。ある意味ではその態度は正しいんだけど、議論の舞台に百合をいつまでたっても上げられない。それじゃぼくが困る*2

性的志向が女性同性愛じゃなくても百合、だけどなんとなく女性同士の話だよね?たぶん好きとか嫌いとか、多くの場合は好きの話だよね?ここで寄り道して、ぼくがTLでよく見る「百合/レズはこれ」みたいな説の話をする(あくまでこの記事は「百合ってなんだろう」を考えたいのであって、レズとの区別を考えるのは手段である)。

まず「性欲/セックスがあればレズ」。次に「レズは一人でもレズ」。この説をそのままとるわけではないけど、やっぱりレズものと呼ぶときそこには性的志向としての女性同性愛が描かれる、ということが強く含意されている気がする。逆に、百合には性的志向の条件は必ずしも必要じゃない。ここはけっこう決定的に違いそうだな~、という所感。

さて百合。さっさと今出してる結論から書くと「女性間の個別具体的な関係性を精密に描けば百合」じゃね?という感じ。

自分や友人、TLの人々が百合と呼ぶものを摂取しているとき、きっと「人と人との関係性」のディテールに心打たれている。人が人に向ける感情は、関係性が濃くなればなるほど複線的で複雑なものになっていく。好意、憎悪、嫉妬、同一化、崇拝、侮蔑……それらは「好き」や「超好き」「尊い」、「ウザい」、「嫌い」などの一言には回収できない複雑さを持っている。そんな複雑さがきっとぼくたちにとっての人間関係のリアリティであり、実生活では意識することが難しい概念である。人間は自分の気持ちも他人の気持ちもよく分かっていないから。

いきなりぶっ込んだが、ここからちゃんと百合の話。たぶん女性同性愛においては、そういった関係性のディテールを描きやすかったんじゃないかな、というのがぼくの予想。それは(ことの是非は置いておいて)女性同性愛が「ありうべからざるもの」だったから。人と人との関係にはだいたい型がある。「家族」「恋人」「友人」「兄弟」「親子」等々……これらには、指すための名が与えられ、同時に規範が生まれていく。往々にして当為と存在は混同されていく。「家族なら互いに深く愛しあいなさい」が「家族なら深く愛しあっているものだ」というように。こうして多くの名が与えられた人と人との関係性には「こういうものでしょ」という観念が形成されていった*3。水を流すための溝を彫ったようなもので、こうした「名」のある関係性を描くうえではどうしてもこの「型」の制約を受ける。描かなかった部分に関しては、読者がその「型」で補完するからだ。もちろん、これは描きやすいということでもあるけれど、関係性を描くうえで大きな不自由にもなることは想像できると思う。

その点、女性同性愛は「ありうべからざるもの」であって、その規範、「型」が与えられてこなかった(あくまでマジョリティから見て、の話)。こうして、女性同士の関係を描くにあたっては、さながら真っ白なキャンバスを与えられたかのように、創作者たちは自由にディテールを描くことが、しやすかったのではないか?というのがぼくの妄想である。

まとめると、人と人との関係性は本来とても個別で具体で特殊であるということ。そんな固有な関係性のディテールを描くには女性同性愛のような「ありうべからざる」関係から描き始めるのが向いていたこと。そしてそんな作品群を百合と呼ぶ人たちが出てきた。というのが、「女性間の個別具体的な関係性を精密に描けば百合」という言葉の言いたかったことである。

「型」なんてない方が面白いので、女性同性愛である必要もなくなってきた、というのが最近の百合レズ論争のめんどくささじゃないかな、という気がしてきた。レズに近い領域から発生した作品群が楽しまれ方によって別の名を獲得していって、レズ的要素を外しはじめたけど、レズ的要素も多くの作品に残ってるからめんどくさいんだよな、ってこと。

これから百合がどんな方向へ歩んでいくのかは気になるところ。「女性」「同性愛」のどちらも関係性の精密描写には必要条件じゃないからね……でも、ぼくは正直に告白すると、性欲やかわいらしいものへの同一化願望が自分の百合作品の楽しみ方の3割くらいは占めている気がするし、そのへんも無視できないややこしさだと思うので。BLは?という疑問もあるしね。わっかんね。

 

 

補足1

もちろん「家族」みたいな「型」を変奏することでディテールを克明に描き出すような作品も多く存在する。あくまで、女性同性愛だと書きやすかったり、意識しやすかったりしたんじゃないか、という仮説である。

 補足2

昔から描かれてきた女性同性愛作品が「姉妹」や「主従」なんかの「型」を纏っているじゃないか、という話はあると思う。でもそれは何もないところに一から人を誕生させるわけにはいかないことや、それらを女性同性愛という「無型」で揺らがせるという意味があったんじゃないかと思う。

 

追記

やっぱり、描きやすさとは違う方向で、「ありうべからざるもの」を「ある」と宣言することそのものに大きな意味があったのではという話に肯きつつある。そういった意味で、(他の「ありうべからざるもの」についても等しく言えることだが)女性同性愛は百合作品と呼ぶものに必要だったのだろうか。百合に女性同性愛はつきものなのか。

*1:異性愛規範の相対化のために引き合いに出されている感のある話ならある

*2:ほんまか?

*3:もちろんこの辺の話はまったくのファンタジー